こんにちは、ずんずんです。アメブロからちょっとはてなブログにお引越ししてみようかと思います。
先日、お金と愛の関係性についてほんの少しだけTwitterでつぶやいたのですが、ありがたいことにTogetterでまとめていただきました。これについてもうちょっと詳しく語りたいと思います。
お金というものは本当に恐ろしいものです。
特に近しい人との関係においてはお金はいろいろなシンボルとして形を変えます。
多くの人はお金を「力」だったり「能力」の表れだと考え、またある人はお金を「愛情」や「信頼」の表れだと考えます。
しかし、考えてもみてください。
お金というものは、単なる「等価交換の結果」として得られるものです。つまり、お金というものは、提供したサービスの対価として得られるものであって、決して「愛情」の対価ではないのです。ここをはき違えてしまうと、人生は何十年も、下手したら死ぬまでこんがらがってしまいます。
「お金」=「愛情」だと考えている人はたくさんいます。
特に女の子の場合、お金持ちと結婚したがる子がたくさんいます。将来の安定した生活のために楽したいからお金持ちと結婚したいと考えているのでしょうか。実際はそうではりません。
お金に対する感情は、家庭においてお金を出してくれた人との関係性に密接にかかわってきます。多くの家庭では父親が「お金を出してくれる人」だったのではないでしょうか。父親が強権的だった家庭の人は、生活費や学費を出してもらう際になにかしらの我慢を強いられたのではないでしょうか。
たとえば、父親に「誰が金を出してやってると思ってるんだ」と言われればうんざりしますよね。しかし、子供のころはそんな横暴にも、ぐっと我慢しなければいけません。これが積み重なるとお金をもらうということは、「我慢すること」という認識になります。その結果、
我慢することが労働の対価=お金
という図式が出来上がってしまうのです。このような家庭で育った人は、社畜化しやすくなります。なんせ我慢することが労働の対価ですから、どんなひどい環境でも我慢し続けてしまうのです。
話を愛情=お金の図式に戻しましょう。前述のようにお金との関係性は父親との関係性に関わってきます。お金持ちと結婚したがる女性は、幼少期に父親との適切なコミュニケーションがなされず、その代わりの愛情表現としてお金(または高額な物品)をもらっていたのかもしれません。それとは別に、育ちが貧しく、お金に苦労してお金=愛情と勘違いしてしまったのかもしれません。
玉の輿に乗りたがる女の子は、その理由として「将来の安定のため」と答えます。
ですが、その実、愛情を金銭でしか測れない哀しい育ちなのです。大きくなった今も、小さいころにもらった お父さんの愛情をずっと探してさまよっているに過ぎないのです。
お金はサービス提供の対価です。愛情の対価ではありません。そして、またお金はストレスの対価ではありません。お金をストレスの対価だと思っていると、これ以上のストレスをもらうのは嫌だ!!と心が叫んでストレスに耐えられない体になってしまいます。
ストレス発散に浪費する人も間違っています。瞬間的な浪費が与える快楽は慢性的なストレスには効果がありません。本来でしたら、にんにく注射をうち、ホルモンバランスを整え専属カウンセラーを雇うべきなのに、人は喜んでそれ以上のお金を浪費します。
お給料はあなたのストレス耐性に対して払われるわけではなく、あなたの能力に対して支払われるものです。
よくモラハラを受けていますと聞きますが、モラハラは人格否定に対して使われる言葉です。ですが、多くの人は能力に対して言われたことを、人格否定と混同して「きい!モラハラを受けた!つらい!!」と自らでストレスを作りだしてしまいます。
期待されているだけのサービスを提供するだけでは期待の範囲内の給料しかもらうことができません。受付嬢が受付嬢として期待されている仕事を行うだけでは、給料はあがりません。相手が望む期待以上のサービスを提供し、そして、そのサービスに報いる制度が整った環境で働かなければ給料はあがらないのです。
まず始めることは現実を直視することです。自分が提供しているサービスと能力を直視することです。期待に応えているか、期待以上の仕事をしているか、マーケット価値はあるのか。これを行わず、すべてを社会のせいにして自分の中で合理化された世界の住人であるかぎり、酷い労働環境にいる「可哀想な私」のドラマの主演からは降りることはできないでしょう。
というわけでケイクスの連載もよろしくね☆